日本語教師になると決めたのは衝撃的な出会いがあったから。

NIHONGO Friendsのみなさん、こんにちは。

MIKIです。

先日、こんな記事を投稿しました。

[box06 title=”あわせて読みたい”]日本語教師になりたいわけではなかった。[/box06]

学生時代、国語の教師を目指していた私が日本語教師という職業の存在に気づいたところまでのお話でした。

需要があるかどうかは不明ですが、今日はその続きをお話しします。

今日の記事はこんな人にオススメです

    日本語教師の仕事に興味がある。
    日本語教師になろうか、迷っている。

 

それでは、早速いってみよう!!

 

 

 

帰国後も日本語教師なるつもりはやはりなかった

 

アメリカから帰国してから、大学で日本語教師になるための単位取得をする手続きをとり、日本語学科ということもあり重複科目がいくつかありました。

日本語教師になるための勉強は始めていましたが、当時は日本語を教える学校も少なく、日本語の先生という人に会ったこともなく、実態がよくわかりませんでした。

今のようにSNSはまだまだ主流ではなく、インターネットを介して他人と知り合うことは危険だという認識のある時代でした。

 

 

大学4年 国語教員になるため教育実習へ

そんな時代ということもあり、日本語教師になる気持ちはあまり強くなく、中学校の国語の教師になることを第一目標としていました。

大学4年生では母校の中学校で教育実習がありました。この時に、衝撃的な出会いをしたのです。

私が入ったクラスは中学1年生。

つい何ヶ月か前までは小学生だった子ども達です。

 

 

え?日本の中学校にブラジル人???

 

学年で約150名くらいだったと思います。その中に3名の日系ブラジル籍の生徒がいたのです。

私が中学生だった頃と違い、国際的になったんだな、とのんきに考えていました。

今思えば、ブラジル国籍の子がいるだけで、国際的と判断していた私が恥ずかしい・・・。

私が入ったクラスにも1名の日系の生徒がいました。

その子は小学校1年生で来日し、日本語の会話は問題なし、国語の授業にもなんとかついてきていました。

 

 

そして、衝撃的な出会いをする

 

ある日の午後、空き時間に廊下を歩いていたら、違うクラスのブラジルの生徒が歩いていました。

「あれ?今は授業中。どうしてこんなところに?」と思い、話しかけてみました。

すこし困ったような顔でたどたどしい日本語で話してくれました。

「(特別支援学級の)友だちと」「サッカーしてた」

え?どうして?この子のクラスは授業やってるのに??

 

その後、担任の先生や実習のバイザーの先生にお聞きしたところ、

中学生になってから来日し、日本語があまりできないから、授業についてこれない。

だから、籍を置いているクラスが体育や美術などの授業の時は特別支援学級へ行っている。

親も日本語がわからずに、学校とのコミュニケーションが取れなくて、お弁当の日にお菓子をもってきてしまう。

 

この現状を目の当たりにし、教育者として志を抱いていた私にはとてもショックを受けました。

(後の調査で分かったことですが、当時の1990年代後半はこうした対応が珍しくないようでした。)

 

[chat face=”WERMxLFC_400x400-e1535697946431.jpg” name=”MIKI” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]日本語がわからないという理由だけで、学校にいても授業どころか、日本語も教えてもらえず、放置されている[/chat](←当時の私の心境です。放置していたわけではないかも)。

 

 

わからないことばかり

この出会いは私にとってとても衝撃的でした。

子ども達に教育を施す現場でこのようなことが起きていることにショックを受けました。

[chat face=”WERMxLFC_400x400-e1535697946431.jpg” name=”MIKI” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]

どうして授業に参加できない?

どうして彼をそのままにしておくの?

どうして勉強を教えないの?

どうして日本語を教えないの?

[/chat]

 

わからないことがたくさんありました。

この時、外国籍の子ども達を取り巻く環境がとても劣悪だということに気づきました。

それと同時に、現場の先生方も急に増加した外国籍の子ども達への対応に苦慮していることがわかりました。

 

そして決意する

この日の夜、私は「子どもの日本語教育」についてもっと知りたいと思い、そして、こうした子どもをなくしたいと願い、日本語教師になると決意しました。

今では「どこの国の子ども安心して教育を受けられ、安心して日本での生活が送れるような社会の実現」を願い、日々奔走しています。

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